オタク自省録

オタクのオタクによるオタクのためのブログ

中世イギリス史1

前回のダレ気味パレスチナ問題解説で筆者が好き勝手言ったように、イギリスは極悪非道な国である……というのは実は帝国主義が始まる19世紀からで、初期のイギリスはブリカスと呼ばれるほどひどい国家ではなかった。ちなみに、イギリスというのは日本での呼称であり、正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国というクッソ長ったらしい名前である。グレートブリテンで、尚且つカス、よってブリカス

 

さて、そんなイギリスであるが、実はこの国、先祖をたどれば海賊国家である。ヴァイキングという単語を聞いたことがあるだろう。あの末裔が今のイギリス人である。時は10世紀。ノルマン人と呼ばれる民族がスカンディナビア半島あたり(今のノルウェーとかそこらへん)からヨーロッパ各地へ侵入を始めた。彼らはスカンディナビア半島から海をわたって北海沿岸部に上陸して来たため、ヴァイキング、海賊呼ばれ恐れられた。中でも、ロロと言う名の団長が率いる海賊団はフランス北部に上陸した。

f:id:soa_wing:20180124014507j:plain

(↑スカンディナヴィア半島の参考図)

当時のフランスは実はヨーロッパ最弱。と言うと言い過ぎだが、中央集権体制が整っておらず、日本で言う大名が各地で勝手に国を作っているような状態で、当然ヴァイキングに対抗出来るだけの軍事力は持ち得ない。そこで時のフランス国王は今まさにフランスを侵略しようとしているロロたちにこういった。

 

「君らさ、僕らフランスに勝てると思ってるの?だってほら、僕ら内陸部には仲間たくさんいるし、勝てるわけないしょ?でも僕意外と情け深いからさ、北のほうだけなら君らに住むところ分けてあげるよwwだから僕の臣下にならない??」

 

フランスはフランス北部のノルマンディーと呼ばれる地域をノルマン人たちに分け与える代わりに、ノルマン人たちの国家をノルマンディー公国とし、フランスの臣下とした。多分ここ、うまい具合に口車に乗せたんじゃないかなぁと、個人的に思っている(史実に基づけ)

公国というのは、国のランク的に王国の一つ下のランクで、中世ではプロイセン公国なんかが有名どころではないだろうか。ちなみにプロイセン公国神聖ローマ帝国という当時の宗教的、軍事的最高権威を誇った国の戦争に協力したことでランクアップしプロイセン王国になったりする。まあこの辺は近世の話だし余談ってことで。

さてさて、ただの海賊だったノルマン人はノルマンディー公国という国家を築き上げた。しかし彼らはそもそも海賊。ちっぽけな公国なんかじゃ全然満足しない。というわけで次にノルマン人たちが侵略しようと企んだのはブリテン島、すなわち現在のイギリスである。

 

1066年、ノルマンディー公ウィリアムによるノルマン=コンクエスが行われ、イギリスにノルマン人によるノルマン朝が開かれた。

 

世界史の教科書なんかにはこんなふうに書かれてるはず。要は、1066年にノルマンディー公国の王様、ウィリアムって人がイギリスに上陸して先住民を叩きのめして国を立てちゃったよ、ということ。コンクエストとは日本語で「征服」を意味するので、ノルマン=コンクセストとはノルマン人による征服、という意味になる。

そしてノルマン朝「朝」という部分について、筆者が世界史を勉強し始めた頃、これが理解できなかったのでここにもおまけ解説を入れたい。世界史における○○朝というのは、「王朝」のことで、日本で言う「○○幕府」と似たようなものだ。例えば、イギリスではノルマン朝プランタジネット朝テューダー朝と王朝名が変わっていくが、「イギリス」という国自体はかわりはしない。では何が変わったのか。ヨーロッパの場合、王朝名の変化は王家の血統が変わることが起因している。この点でも日本と似ているだろう。鎌倉時代は源一族が治めた時代で、江戸時代は徳川一族が治めた時代。なので、○○朝というのはこういったニュアンスでとらえてもらうといいと思われる。

 

さて本編に戻ろう。イギリスにノルマン朝を開いたノルマン人。この時イギリスにはイングランド王国というものが存在していたため、ノルマン人はその王国をそのまま継承し、ノルマンディー公国なんていうショボい国家とはおさらばし、なんとまあ勝手に王国にランクアップしてしまう。当然、元々ノルマンディー公国だった土地も王国に引きずり込むため、成立当初のイギリスはヨーロッパ大陸にも領土を保有していたことになる。今とはだいぶ違う。

そして百年後、ノルマンディー公ウィリアムの血筋が途絶えたことで、ノルマン朝イングランドプランタジネット朝へと名前を変える。その記念すべき初代国王はヘンリ二世!!どうせなら一世だといいのに、二世である。まあいい。そのヘンリ2世はこれといって特筆すべきことはないのだが、その次の二代目国王がすごい!!彼の名はリチャード1世。彼は、当時ヨーロッパへ侵入を繰り返していたイスラームの国家に対して、ヨーロッパ全体の国々で連合軍を作って対抗しよう!!と結成された十字軍に参加し、第三回十字軍遠征において、イスラムの英雄、サラーフ=アッディーンと一戦交えている。その果敢な姿から付けられた彼のまたの名を、獅子心王リチャード」厨二心くすぐられる素敵なネーミングではないか!!と、リチャード一世のことを初めて知った筆者は思ってました。いや、今でも十分かっこいいと思うけど。

 

十字軍のことも後々解説したいと思うけど、今回は端折って次いきます。そんな超かっこいいリチャード1世でしたが、彼の暗殺を企む存在がいました。それこそがイギリス史上最低の王とも呼ばれているジョン王。彼はフランス国王とたばかりごとをし、十字軍から帰還するリチャード1世に執拗な嫌がらせや暗殺計画を実行し、ついにリチャード1世は死んでしまう。そうすると、必然的に血筋のあるジョン王が王位につく。世界史ではこのように、自分が王になるために現時点の国王の暗殺を企てるといったことが日常茶飯事のように起こる。

このジョン王が最低の王と呼ばれている所以は、とにかくこいつはバカだから。である。まず彼は領土拡大を目指し、当時のフランス国王フィリップ2世と争うのだが、それにまんまと大敗し、ヨーロッパ大陸にあったイギリスの領土の半分を喪失。さらに、当時宗教的権威が絶頂にあったローマ教皇とも揉め事を起こし、史上最強のローマ=カトリック教皇インノケンティウス3世から破門されてしまう。そればかりか、貴族を含む国民に対して不当な重税を課したため、国内の貴族たちからも反感を買い、貴族たちからかの有名な大憲章、マグナ=カルタを承認させられてしまった。

ここで再び補足。ローマ教皇の存在について。中世から近世にかけてのヨーロッパでは軍事的な強さと同等以上に宗教的権威が重要視されていた。ヨーロッパといえばキリスト教であるが、そのキリスト教の定義や儀礼形式などを司る絶対的権威として、ローマ教皇という存在があった。軍事力を持たない教皇であるが、どの国も、ローマ教皇にだけは喧嘩をふっかけることはできない理由があった。それが「破門」というシステムである。破門とは、「お前はイエス様を裏切ったろくでなしだからキリストはお前なんか助けてくれねーよ二度と顔見せんな」と、教皇が言っているようなもので、厚くキリスト教を信仰するヨーロッパ人にとっては社会的死を意味し、仮に国王であろうとも教皇から破門された日には、国民的には「なんだこの王様キリスト教も信じてないのか反乱起こしちゃうぞ」となり、他国のからは「あの国は王様が破門されてるんだから侵略戦争するのも正当だよな」となり、それゆえ臣下からは「他国に攻め入られる前に破門されてない別の新しい国王に変えなきゃ(使命感)」となるのである。

 

補足が終わり、続いて、マグナ=カルタの説明をする。マグナ=カルタとは、傍若無人を極めるジョン王に対して、国内の貴族たちが「いくら国王とはいっても、最低限の常識はわきまえてね^^」と、威圧をしたものである。この中にはかの有名な「国王といえど神と法の下にある」も含まれている。こういった、国民が国王を諌めるというスタンスは今後もイギリスではたびたび起こり、このことがイギリスをヨーロッパで最も早く議会が成立した国たらしめるというわけである。

その後のイギリスは、ジョン王の子であるヘンリ3世が国王となるが、所詮蛙の子はカエル。こいつも親と似たりよったりのゴミクズ国王だったため、シモン=ド=モンフォールという貴族を中心とする貴族反乱が起こり、イギリス議会の起源とも言われる一番最初の議会が開かれた。さらに次代の国王は、流石にゴミではなかったようで、エドワード1世というのだが、彼は上院(貴族院)と下院(庶民院)に分かれた二院制の議会を開く。俗に言う模範議会というものだが、この時は14世紀の半ば。イギリスの議会政治の発展は皮肉にも、最低最悪の国王の出現によりなし得たとも言えるだろう。

今回はここまで。次回はついにフランスと前面衝突を起こす英仏100年戦争と、イギリス国内の男と漢の生死をかけた戦い、薔薇戦争をお届けいたします。