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オタク自省録

オタクのオタクによるオタクのためのブログ

ちょっとした幸せと、自堕落な半生と。

先日ブックオフで購入した古本に著者のサイン色紙のようなものが混入されていた。

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本は天下の回しものとはよく言うが、まさかこのように素敵なおまけまでついてくるとは。これもまた何かのご縁ということか。しかし俺という産業廃棄物森見登美彦大先生の聖遺物を賜ってよいものなのかと、我ながら訝しんでしまう。

今更ながら自己紹介をすると、俺という人間を一言で表すならば『褒めるべきところが凡そ一つもない』大学生である。前世でどれほどの悪行を下積みしてきたのか知らんが、この世の畜生道に産み落とされたということは悪意重過失の大罪を犯したに違いない。

 

そこで俺は唐突に思い立った。

 

「善行を積もう」

 

仏教蔓延る日本国内では、『この世での徳をボーナスとして来世に引き継げる』という輪廻転生的宗教観が根強い。ここに科学的分析の刃を持ち込むのは野暮である。そういうものとして飲み込み、溜飲を下げてこそ、風流を好むすき男というものだ。

しかし善行を積もうにも、そもそも善行というものがわからない。こと欲深さに関しては一般的大学生の範疇を大いに超越している俺にとって、思いつく限りの善行は『ゴミ拾い』だった。ではゴミ拾いからでも始めればいいじゃないか。そう言いたい読者諸賢の気持ちも十二分にわかる。だが、事はそういう話ではないのだ。上記の通り、道徳的退廃の典型として模型のごとく生きる俺が、目の前にある地道な努力を即座に実行できるはずがない。思い立ったが吉日と躍起になるのは、もはや減量不能なまでに肥大した妄想のみである。

 

俺は現実的論理的具体的に考えた。俺が実行できる『善行』とは『少ない苦労で大きな徳を得る行為』、つまりコストパフォーマンスの権化のような行為のみであると。俺のことを聖なる怠け者と罵倒するのは結構である。しかし読者諸賢も自分の身の上話だと思って考えてみてほしい。六条間という己の牙城の清掃も満足にこなせない人間が、開けた世界に点在するゴミの収拾ができるとお思いか。可能である、と考えた方は反省するべきである。まだまだ論理的思考力が足りない。

では俺に可能な善行とは具体的に何を指すのか。その答えを導き出すためには、話を俺の出生にまで遡らなければならない。

 

俺の出生は大いなる怠慢に始まる。本来生まれるはずだった日にちから4ヶ月も遅れて出産を果たした俺の体重は4600グラムに及んだ。大した肥満児である。その肥満具合は呪詛のように今にまで続く。両親が養豚場の豚を見るような目で俺を冷視したであろうことは想像に易いが、見てくれだけでなく、その自尊心も丸々と肥えていた。今でこそ『将来性のあるゴミ』を自称できる程度に軌道修正を果たしたものの、小等部時代の俺はただの害児であった。

教員と公務員という一対の公僕から練り消しが生まれたが如き突然変異である。幼少期の俺の姿に前向きなワードは思い当たらない。日本の将来のために無償で支給された教科書を巧みに悪用し、見事なまでに悪知恵を身に着けた。同じ教室に寿司詰めにされた未来のホープの成長阻害要因として早くも非凡なる才能を見せつけていた。

それから今に至るまでの時間の中で、俺は実に軽薄短小な知識を身に着けた。俺はそのゆとりにゆとった知見をひけらかすために生まれてきたような男で、近年の若者に欠けるとされる自尊心や自負といった自己肯定要素を人一倍持て余していることに定評があるという。

 

さて、そのような人間に積める善行とは何か。俺の出した答えは、『何もしない』ことだった。

俺の成すことの一切は、周囲に対する不利益である。だとすれば、善行と思い込んでいる余計な行為を全て排除すれば、社会全体に対する利益になるのではないか。まさに最大多数の最大幸福。これこそが俺の善行に対する答えだ。

 

「そうか、何もしなけりゃいいんだ」

 

そう考えると随分気が楽になった。何も考えず虚空を見つめて余生を過ごせば、来世では想像もつかないほど高貴な転生を果たせるのだ。ちなみに先程俺の半生を参照した意味はない。ただの尺稼ぎである。ただ、自虐文を書き連ねている時、他のなにものにも勝る生きた実感を感じていた自分に、一抹の不安を感じてしまったことは正直に告白したい。いつも言っていることだが、もう少し生産性のある人間になりたいものだ。実りのある日々を望むことくらい許されるはずだろう。

しかし当面は何もしない。苔がつくほど転がり無精な石になりたい。そう思って迎える朝チュンもまた一興。