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オタク自省録

オタクのオタクによるオタクのためのブログ

【雑記】文章練習を宣言する練習の練習

罪深いことを平然とやってのける男になりたい。

そう思ったことがある。中二病時代の自分であり、現在の自分でもある。中学生当時の俺は、単に反社会的な行動をかっこいいと錯覚していた節があるが、現在の俺はまったくもって違う。罪深いこととはすなわち、この時間(午前3時45分)におけるカップラーメンであり、ポテトチップスであり、コカコーラである。そして俺はそのすべてを手中におさめ、次の拍子には腹中におさめていた。

 

人間とは欲深い生き物で、一度樹立した目標に対してそうやすやすと努力することが能わない。というのも、必ず道半ばで新たな方向に青雲の志を抱いていしまう。法科の徒なのだからと何の気なしに手にした法律書を数ページ読み進めただけで「俺には法律の才覚がある」と錯誤に陥った自分自身の口車に乗せられ有頂天となりブックオフで目についた森見登美彦を持ち帰って一読してみては「人生の展望は文豪にあり」と文豪の文章を自身の文章と誤認し、天賦の才で勝敗が決する土俵に徒手空拳で挑まんとする不逞の輩だってこの世界には居る。それが私立文系ゴミ大学生ことこの俺である。

これは一体何の記事か。単刀直入に言うと、何のお題もない俺の文章の練習の記事である。『継続は力なり』とはよく言ったもので、反対解釈の『断続は非力なり』もまた見事に成り立ってしまう。確かに俺は読者諸賢の興味関心の赴くような話題に対してのみ的を絞って狙い撃ちするかのごとくコラムを書き下ろしたい。ただ、そんな話題がいつ俺のもとに降臨なさってくださいますことか皆目見当がつかない。神のみぞ知るということなら神の一人や二人是非とも我が家に降霊したい。八百万の神というぐらいだから数人ぐらい俺と猥談してくれたっていいだろうに。そうもいかぬが世の常ということなので、来るべき俺と話題との千載一遇のチャンスに備え、常日頃からしょうもない記事を連続怪異小説のように綴っておくことにした。

 

森見登美彦大先生は自身のことを「あらゆる事象に対して綿密な分析を行う。むしろ分析しすぎて機を逃してしまうことも構わず徹底した分析を加える男」だと称していた。称していたというか、おそらく大先生があるいは無意識のうちに自身を投影しているであろう小説中の主人公の言葉である。一方この俺Soaという人間は「あらゆる事象に対して分析を怠る。むしろ分析を怠ることに誇りを持つが如く徹底した怠りをみせる男」だと自覚している。

俺は森見登美彦大先生を崇拝しているというのに、まるで正反対の性格ではないか。このままでは彼のように2ページで読者を抱腹絶倒させるような喜文を書けるようには到底なれず、呪詛のように奇文を生成し続ける産業廃棄物として一生を終えてしまう。いや、産業廃棄物であればまだ文鎮としての利用法が辛うじて残されているが、俺は親にADHDを疑われるほど落ち着きがない人間なので、半紙を固定することなく他所の墨汁を両足に纏い大地を蹂躙してしまう恐れがあるためそれも叶わない。俺に残された活用法は、二酸化炭素を生産し地球温暖化に貢献することか、あるいは臓器のドナーくらいのもの。つまり現状ではただの『音の出るゴミ』である。もう少し自他共に有意義な人生を歩みたかった。

 

「罪深いことを平然とやってのけたい」などと言いながら、お前の存在そのものが罪ではないか、というご指摘はSoaという人間の核心に迫る実に鋭い見解だと思う。それはそれは鋭いもので、俺の微妙繊細な心がギザギザハートになってしまったのは、これまで受けた数々の分析の刃のためだ。よってブロークンハートする前にその鋭利な一言を喉の奥に仕舞い込んでいただきたい。読者諸賢が傷つくぶんには俺は一向に構わない。

ただ、叱責されなくとも、俺自身が罪深いということは重々自覚しているつもりだ。神が与えた原罪とは己自身のことである。為せもしない高貴な志を乱立し、自分の将来という広大な領土を混乱させ、ついにはその何れも達成できず傾国へと誘ってしまう個々人の意志力の弱さである。おお神よ、ただでさえ草食動物のようにか弱いこの私に、どうして更なる過酷な試練をお与えになったのですか。というか神がお与えになったのですか。なんでだよ俺の許可なく余計なことをするんじゃねえ表にでろ。

 

なんだか物騒になってきておちおちペペロンチーノも作っていられないので、宗教的な話は心の統治行為論をもって締め切らせていただきたい。イタリア料理を日本家庭の調理場で作れるようにしてくれた先人たちに感謝しつつ、俺は今日もまた罪を重ねる。